つ 昭和20年(1945)第二次世界大戦終わる日本国憲法公布学校では、1泊2日の日光への修学修学旅行の復活:群馬県立高崎商業旅行を行った。米持参、持物は通学かばん、買出し用リュックサックなどの記録がある/山口県立厚狭高等女学校では、松江・大社方面への3泊4日の修学旅行を実施した/その他大阪の船場女学校の阿蘇旅行、岡山の矢掛中学校の大阪、奈良、京都旅行などの例がある教育基本法の新制中学校発足新制高等学校発足朝鮮戦争始まる教育委員会発足サンフランシスコ平和条約発効修学旅行専用列車運転開始:この年国鉄利用の修学旅行は延2、958万人で、全国の団体輸送の86%を修学旅行が占めていた財団法人日本修学旅行協会設立日本修学旅行協会機関誌『修学旅行』創刊修学旅行連合輸送開始:和歌山県の中学校・高等学校の修学旅行は専用修学旅行専用団体輸送の始めである列車による連合輸送を行った。戦後のが、濃霧のため同じ連絡船第三宇高紫雲丸事件:国鉄宇高連絡船紫雲丸丸と衝突。修学旅行中の小中学生109名の死者を出す惨事となった国際連合加盟成る文部省「修学旅行の手引」を発行参宮線列車事故:参宮線六軒駅(三重県・現松坂市)での旅客列車脱線衝突事故で修学旅行生徒に死傷者が出た。死者は生徒24人、引率者3人(うち1名は重傷で後日死亡)修学旅行教育課程に位置づけられされ、小・中学校の『学習指導要領』に「学校行事等」が位置づけられ、ここで修学旅行は中学校で「学校が計画し、実施する教育活動」となった修学旅行専用車両「ひので」号・「きぼう」号建造:東京の中学生の修学旅行のための専用車両「ひので」号2編成24両の新造が国鉄理事会で決定。これに続いて京阪神三市も専用車両「きぼう」号の建造を決定したる:学校教育法施行規則の一部が改正岡県立三潴高等学校創立四十年史』)に「五泊六戦後、学校教育が再開されると一時停止されていた修学旅行も、戦前・戦中とは性格を変えて再開されていく。昭和二一(1946)年には、早くも山口県立厚あさ狭高等女学校が松江・大社方面へ三泊四日の修学旅行を実施した。その後も、修学旅行は続々と復活していくが、昭和二四年10月に修学旅行を実施した福岡県立三み潴ま高等学校の記録(『福日の京阪旅行も汽車はすしづめ、食べものは持ち込んだものだけ」とあるように、汽車は1ボックス6人掛けが普通、夜行列車を利用する場合、生徒は座席の下や通路の床に寝ていたという。また、旅館は米を持参しなければ宿泊できなかった。当時の修学旅行は交通事情・食糧事情の極めて悪い中で行われていたし、家庭の費用負担も大きかったと思われる。それでも実施されたのは、多くの学校が修学旅行の教育的意義を認めていたからであろう。列車の混雑に関しては、修学旅行の実施時期が春と秋に集中していることが大きな要因となっていた。また、当時は旅行中の食中毒や感染症罹患、生徒の不良行為といった事故も頻発していて、一校ごとでの対応が難しくなっていた。そこで、修学旅行を複数の学校が合同で実施し、こうした事態に対応しようという修学旅行の再開と進化33年(1958)31年(1956)30年(1955)29年(1954)28年(1953)27年(1952)25年(1950)23年(1948)22年(1947)21年(1946)教育旅行 2023年1月号 20昭和30年代前半の混雑した車内(上)と宿舎(右)修学旅行専用車両「ひので」号「ひので」号のヘッドマーク(日本修学旅行協会保管)昭和22(1947)年 東京・牛込高等女学校(現・豊島岡女子学園) 二条城にて昭和47(1972)年に『校外学習』と改題機関誌『修学旅行』創刊号昭和28(1953)年3月発行昭和35(1960)年から月刊に
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