学制公布東京師範学校の「長途遠足」…修学旅行の始まり:2月15日〜25日、千葉県下に「一ハ兵式操練ヲ演習セシメ、一ハ実地ニ就テ学術ヲ研究セシムルノ目的」で長途遠足を行う尋常師範学校準則の通知。準則に「修学旅行」という項が示された女子の「修学旅行」の初見:山梨県女子師範学校生徒15名は京都、三重を視察し、帰途文部省を訪れ、榎本文相に面会した海外修学旅行のはじめ:長崎商業、8泊9日の上海方面旅行鉄道運賃の団体割引はじまる岡山県私立関西中学校が成績優秀者8名を選びアメリカ修学旅行を実施中国東北地方の日露戦争の戦跡めぐ実施りを全国の中学生が五班に分かれて山口県立赤間(下関)商業学校、台湾へ修学旅行日中戦争始まる伊勢神宮参拝の奨励:鉄道省は告示小学校の団体が、伊勢神宮参拝のため旅行する場合の運賃割引率・乗車区間・その他を示した。これを契機に伊勢神宮に引率参拝する学校が多くなった文部省が修学旅行の制限を通牒太平洋戦争始まる中華民国、満州国への旅行禁止明治5年(1872)大正5年(1916)昭和12年(1937)第98号を出し、教職員に引率された陵小史』)、この頃には鉄道が利用されていで行うことが当然であった。修学旅行で鉄道が利用され始める時期は不明だが、明治二二年に実施された第三高等中学校(当時は大阪に所在)の明石方面への修学旅行では、その費用に「神戸ヨリ大阪マデ汽車賃弐拾銭」と計上されていて(『神たことがわかる。鉄道利用の広がりは、修学旅行の行軍訓練という性格をしだいに薄くしていった。一方、明治三四年の文部省令第3号中学校令施行規則第13条では「体操ハ普通体操及兵式体操トシ」と定められ、「兵式体操」は正課としての「体操科」の中に位置付けられた。これによって修学旅行からは行軍訓練の要素が分離され、現在実施されているような修学旅行の形ができあがっていったとみられる。日清・日露戦争の勝利によって中国東猷ゆ館かが、博多を出発して大連・奉天など んう修 (告示第98号)による鉄道運賃の割引で、伊北部(満州)に日本の勢力が拡大し、明治四三年に韓国が日本に併合されると、師範学校や旧制中学校ではいわゆる「満韓修学旅行」が実施されるようになる。早くは、明治三八年に福岡県立中学中国東北部をめぐり、平壌・京城を経て博多に戻るという修学旅行を行っている。「満韓修学旅行」は、明治末期から大正を経て昭和初期まで活発に実施されたが、旅程に日清・日露戦跡の見学が組み込まれるなど、当時の国策に沿って行われていた。ただし、「満韓修学旅行」は、満州事変やその後の日中戦争によって急速に減っていく。一方、内地で実施される修学旅行では、伊勢神宮をはじめとする神社仏閣や皇居への参拝、軍艦や軍施設等の見学が盛んになる。たとえば、大正三(1914)年に実施された下関市立下関商業学校の修学旅行の記録には、「桃山東西両御陵に参拝して明治の大業を追憶し奉り、伊勢神宮に参拝して国運の隆盛を祈」ったとある(『下商七十年史』)。この傾向に拍車をかけたのが、昭和一二(1937)年に鉄道省が告示した「神宮参拝取扱方」勢に行く途次に奈良・京都に寄るという学校も増えていった。旅程に軍艦や軍施設の見学を入れる学校も多くあったが、なかには東京開成しゅう中学校が昭和三年に実施した修学旅行で、生徒を戦艦山城に乗船させ海軍生活を体験させた、といった事例も見られる。明治末期~昭和戦前期は、小学校から旧制中学校・師範学校に至るまで、修学旅行が学校行事の一つとして定着した時期であるが、その背景には社会全体の国家主義的な思潮があり、学校教育で敬神思想や国体観念を育成しようという国家のねらいがあった。修学旅行は、そのために広く実施されるようになったといえるかも知れない。しかし、戦時体制が強化され、鉄道が軍需物資や兵員の輸送を優先するようになると修学旅行の実施はしだいに困難になっていく。そして、昭和一六年8月に学校教員、学生生徒、団体旅客等に対する鉄道運賃の割引が停止されると、修学旅行はしだいに実施されなくなっていった。昭和一九、二〇年の修学旅行の記録は、現在のところ見当たらない。戦争と修学旅行16年(1941)15年(1940)39年(1906)34年(1901)32年(1899)29年(1896)22年(1889)21年(1888)19年(1886)大正14(1925)年 東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校) 満州修学旅行、大連港から天津へ向けて出発。船籍大連と読める年表作成 ©日本修学旅行協会昭和7(1932)年頃 埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和女子高等学校) 軍艦金剛甲板上にて昭和13(1938)年 長野県赤穂村立赤穂尋常高等小学校(現・駒ヶ根市立赤穂小学校) 伊勢神宮にて19 教育旅行 2023年1月号
元のページ ../index.html#2