〈創刊800号記念〉文=(公財)日本修学旅行協会 理事長 竹内 秀一修学旅行は「旅行・集団宿泊的行事」(小学校は「遠足・集団宿泊的行事」)として、学習指導要領における特別活動のうちの学校行事の一つに位置付けられている。2017年と2018年にそれぞれ告示された小・中学校と高等学校の新学習指導要領でもその位置付けは変わっていない。台湾や韓国・中国などの学校にも「修学旅行」という名称の研修旅行があるが、この場合、参加するのは希望した生徒だけという募集型の旅行であり、当該学年の全ての生徒が参加することを前提とする日本の修学旅行とは異なる。修学旅行は、近代日本の学校教育が育んできた独自の教育文化であるといってよい。修学旅行は、明治一九(1886)年2月に東京師範学校(この年4月に高等師範学校に改組、現在の筑波大学の前身)が実施した千葉県銚子方面での11泊12日に及ぶ「長途と遠足」からはじまった、というのが定説である。つまり、修学旅行は、泊を伴う長距離の「遠足」からはじまったということになる。それちょう有あ礼のが学校への兵式体操導入を奨励しでは、当時、実施されていた「遠足」とはどのようなものであっただろう。日本における近代的な学校制度は、明治五年に定められ、翌年施行された学制によって導入された。当時の学校では「国民皆学」のもと、教科教育が重視されていて、現在の特別活動にあたる教育活動は「課外活動」として概ね軽視されていた。しかし、明治一八年に内閣制度が発足し、初代文部大臣に就任した森たことを背景に、たとえば運動会は、立派な兵士を育てるうえで、生徒の体格を向上させ「忠君愛国」精神の涵養をはかるための集団訓練、遠足も兵士が隊列を組んで行進するのを模した「行軍訓練」という性格をもつ教育活動として実施されていく。前述した「長途遠足」も、そ等師範学校同窓会の機関誌)第47号が、高等る(左図)。の目的は「一ハ兵式操練ヲ演習セシメ、一ハ実施ニ就キテ学術ヲ研究セシムル」ことにあると報告書(『大日本教育会雑誌』30号)にある。ただしこの報告書には、「長途遠足ノ学術上ニ有効ナルハ教員一同ノ確認セル所ナリ。…若シ学術上研究スベキコトアルニ当ラバ充分ノ時ヲ之ニ用ヰ得ベキヤウ」とあって、「長途遠足」が学術研究を重視して実施されたことがわかる。実際、生徒たちは訓練と併せて気象の調査や鉱物・貝類等の観察・採集、文化財・遺跡の見学などを行ったという。なお、「修学旅行」という名称は、明治一九年12月刊の『東京茗め溪け会雑誌』(高師範学校が同年8月に実施した下野方面への旅行記の緒言を「修学旅行記緒言」と題して掲載しているのが初見とみられ 『文部省第十五年報』(1887年)に師範学校で「修学旅行ヲ施行シ以テ地理ヲ探究シ動植物ヲ採集シ写景及ビ発火演習等ヲ為サシムルハ府県ノ概ネ挙行スルトコロ」とあり、この頃には、修学旅行が多くの師範学校で実施されるようになっていたことが推測される。また、文部省令第8号(1892年)の師範学校における学科等改正の説明に「適当ノ時期ヲ選ビ教員ヲシテ生徒ヲ率ヰテ修学旅行ヲ為サシメ、山川郊野ヲ跋渉シテ其身体及精神ヲ鍛練スルト共ニ、知見ヲ広メシメンコトヲ努ムヘシ」と記されていて、修学旅行の実施が奨励されている。こうして修学旅行は、師範学校を中心に広がっていった。ただし、修学旅行は行軍訓練という性格を持つ以上、徒歩修学旅行のはじまり修学旅行の普及と鉄道の利用 りり いい 教育旅行 2023年1月号 18明治23(1890)年 東京府尋常中学校(現・東京都立日比谷高等学校) 日光東照宮にて明治39(1906)年 大阪府立堂島高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校) 中禅寺湖畔にて特 集 2修学旅行の歩み
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